とび色の誘惑

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袖浦郵便局の風景印(静岡県磐田市)

   

袖浦郵便局の風景印(静岡県磐田市)

使用期間
平成27(2015)年10月27日~
図案説明
遠州海岸の掛塚灯台と風竜(風車)を描き、袖浦公園の初代ブルーインパルス(F86)を配す。

静岡県磐田市・袖浦(そでうら)郵便局の風景印です。

10月27日より上の図案に変更となりました。なかなか郵頼が返ってこなかったので、どうしたのだろう?と心配していましたが、数日経って届いた返信には、こんなメッセージが添えられていました。

当局、風景印に対して、早速、押印の依頼をいただき、ありがとうございます。下手ながらも、解説書作成しましたので同封します、是非、この地に来て下さい。

袖浦 局長 栗田耕志

私は、おもに改廃する風景印を年に何十回も郵頼しているわけですが、返信にこのような丁寧なメッセージが添えられていることは稀です。まして「この地に来て下さい」というメッセージは初めていただきました。

風景印は、その土地を訪れ、町を歩き、地元の方と言葉を交わし、旅の印象が深まることで、心に残るものとなります。郵便局は生活に密着した場所なので、風景印の押印を待っている間に、地元のお年寄りたちの会話が聞こえてきたりするのも、楽しみなのです。

と、それはわかっているのですが、全国津々浦々の郵便局を平日の営業時間内に訪問するというのはなかなか実現できず、どうしても郵頼に依存してしまっています。

でもやっぱり、行かないとわからないことってありますよね。風景印に描かれるのは、メジャーなランドマークだけではなく、その町の住人でもよく知らないような、ミクロなテーマであることが多いです。郵便局が休みでも、そうした場所なら探訪できます。袖浦局の局長さんは、そんなことをおっしゃっているような気がしました。

さて、メッセージにあった「解説書」は、「Sodeura Post Memory 70」と題するA4二つ折りのペーパーに、局や地域の歴史を記した局オリジナルのものです。

この地(駒場村)では、明治17年に駒場郵便局が開設されました。それから130年の間に、この地には、掛塚(駒場)灯台が明治30年に初点灯されました。それから100数年経過した、平成15年には、風竜(風力発電)が完成する等、袖浦地区では、陸・海・通信と、いつの時代も貢献してきました。この度、袖浦の地の歴史を多くの方に伝えたく思い、風景印を一新しました

袖浦郵便局の製作による風景印解説書より

さらに「風景印への想い」というページにはこのように書かれています。

70年前のこの地で、戦争を穏やかに終息させる為、マニラから木更津まで飛ぶ途中(マニラ会議からの帰途)、鮫島海岸に燃料不足で墜落逃れ不時着した飛行機があったそうです。
その時、飛行機から脱出した兵隊は、周辺集落(鮫島)の人達の助けで、電話の繋がる所(袖浦郵便局)へ案内され(8月21日2:00頃)、同時に天竜分教所で就寝中の隊長を呼び、「マッカーサーと、降伏調印に向けた話し合いをして、今後の予定を報告したく、今夜中に東京へ戻りたいから、飛行機を出してください」と頼んだ。結果、「浜松飛行場(浜松基地)なら、飛ばせる機体があるので、案内します」と、急ぎ向かい、浜松から東京へ飛び無事、調印式等の今後の予定を報告した。

同解説書より

「マニラから木更津まで飛ぶ途中(マニラ会議からの帰途)、鮫島海岸に燃料不足で墜落逃れ不時着した飛行機があった」―――不勉強な私は「マニラ会議」を知らなかったのですが、調べてみると、かなり重要な歴史上の出来事だったのです。

この出来事は、不時着した飛行機に搭乗していた当時の陸軍参謀次長・河辺虎四郎(かわべ とらしろう)の日記および回想録に詳しく書かれていました。

昭和20(1945)年8月14日、御前会議で天皇の聖断によりポツダム宣言の受諾が決定され、連合国側へ宣言受諾を通告、翌15日正午には玉音放送で国民に対し戦争終結を発表、という流れはよくご存じかと思います。

ともすると、戦争は8月15日ですべて終わったと錯覚してしまいますが、もちろん急には終われないわけです。無条件降伏を不服とし、徹底抗戦を主張する将校たちの不穏な動きが相次いだり、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本へ宣戦布告したソ連が、南樺太や千島列島への侵攻を続けたりしている中、本当の意味で戦争を終らせるためには、まだいくつものハードルを越えなければなりませんでした。

玉音放送の翌日、連合国側は日本に対し、降伏文書の調印に向けた指示をするため、マニラの連合国総司令部へ使者を派遣せよと通告してきました。これを受けて選ばれたのが、河辺虎四郎を代表とする使節団です。

袖浦局長さんの資料に書かれていたのは、この使節団が帰国する際のできごとです。一行は、マニラからアメリカ軍機で沖縄・伊江島へ飛び、そこで日本の飛行機に乗り換えて東京へ向かっていました。

午後六時半頃、私らは伊江島を離陸した。天気快晴、夕日が赤々と輝いていたが、離陸後まもなく、東支那海の水平線下に没した。十三夜の月が刻々明るさを増し、乗務室のガラス天井を通して、乗務員たちの全身を照らしている。機内は無燈暗黒であるからわれわれは眠る以外にすべもなし。私は単調なエンジンの音の中に、心身疲労のためか、いつの間にか深い眠りに落ち込んだ。

幾時間が過ぎたのか、腕組みして椅子に眠っていた私が突如ゆすぶり起こされた。一乗務員が私の耳に口をあてて、「海面に不時着をしなければならぬようですから、救命具を付けて下さい。時間はまだ十分ありますから、ごゆっくりどうぞ」という。「エンジンの故障かな?」と思いながら、手探りで、私に配当された救命胴衣を着装した。ところがしばらくして、乗務員が再び来て、「御安心下さい、大丈夫です。平塚の海岸が見えました」というのである。眠気の私の頭ははっきりせず、救命胴衣もそのまま着けっぱなしでいると、彼は三たび来て、「やっぱり駄目です、不時着です、ご準備をねがいます」といい、急いで自席に帰っていった。私のすぐ前の座席にいた岡崎氏は、「携行書類は私がもっています」と私に告げた。乗務員室では、寺井中佐もいて何事か忙しそうに、しかしまごついている様子もなく、次から次へと処置をしているありさまが、月の光でよく見られ、いじらしい気持ちをさえ感じさせる。寺井中佐の声だろうか、「不時着用意」という号令が聞こえた。機速は急に減った。機体の沈降が明瞭に感ぜられ、文字どおりに「刻々」気温が増すのがわかる。エンジンが時々バンバンと鳴る。

河辺虎四郎『河辺虎四郎回想録:市ケ谷台から市ケ谷台へ』
1979年、毎日新聞社、以下同

飛行機は次第に高度を下げ、ついに不時着します。

機体の沈下するにともない、私は膝の前の座席をかたくつかんで、のめらぬようにと頑ばっていたが、そのうちに、機体前部の着地を感ずるとともに、相当に強い惰力的の衝撃を受け、それと同時に、頭上の闇の中から、何物かガタコトと転落する響きがきこえ、瞬時の後急激な一激突とともに機体が静定停止した。その刹那私は、「助かった」という一種の安心感を得、同時に、「この状況では怪我したものはなかろう」と推定した。

飛行機は、機体の前半分が砂浜に乗り上げ、後ろ半分が海面に浸った状態で停止していました。プロペラが曲がった以外、大きな破損箇所はなく、けが人も軽傷者1名のみで、不時着は成功です。不時着の原因は燃料切れでした。重要な任務の際にこんなミスがあるのもちょっと考えにくいですが、河辺参謀次長は「いささかおかしな話だが、私は追求する気にはならなかった」と記しています。

そうこうするうちに急に月が落ちて暗くなりはじめた。あたかもそこへ一名の老人が浜づたいに来たので、「ここはどこかね」とたずねたところ、天竜川河口の左岸に程近い場所であることを説明してくれた。平塚海岸などとは大きな誤測で、ここは遠州灘の海浜なのである。

この老人の語るところによれば、彼は部落で乾魚の夜番の勤めにあたり、ひとりこの浜にいたところ、飛行機が降りてきたから、アメリカのものと思い、浜に曳き上げてある舟の陰にかくれていた。ところが飛行機から出た人たちの言葉が日本語にまちがいないので、出て来たという。

天竜川河口付近といえば、私が浜松飛行学校在勤時代の因縁で、一応私は地理も心得ている。この老人にも依頼して、近所の部落の警護団をわずらわし、ついで天竜飛行部隊のトラックを寄越してもらい、一同これに乗って元の浜校へ行くこととし、東京への報告については警察系統に頼る処置をした。

このあたりが、解説書にある「飛行機から脱出した兵隊は、周辺集落(鮫島)の人達の助けで、電話の繋がる所(袖浦郵便局)へ案内され」という部分に相当するようです。ここに出てくる「近所の部落の警護団」が連絡を取るために使ったのが、袖浦郵便局の電話だったのでしょうか。こうして、袖浦局は歴史に登場することになるわけですね。

その後一行は、連絡によって駆けつけたトラックに乗り、数度の空襲によって焼け野原となった浜松市街を抜けて、旧浜松陸軍飛行学校へと向かいます。

約二時間の仮眠後、八月二十一日の早朝兵隊さんのこしらえてくれた兵食に舌鼓を打ち、飛行場に行き、そこでわれわれを待っていた四式重爆に乗り込み、七時やや前、快晴の浜松飛行場を離陸した。箱根付近まで空路一碧、富士もまことに奇麗な姿であった。東京の西郊やや断雲があったが、八時頃調布飛行場に着いた。

宮崎中将が一人出迎えに来ていてくれた。同氏から東京では昨夜以来総理殿下以下大いに心配していたこと、現在総理官邸に関係者多数集まって報告を待っていることなどを伝えられた。そこでともかくさっそく総理官邸に行こうと、私は、岡崎、天野、横山三氏とともに永田町に走った。

こうして、河辺参謀次長ら一行が無事任務を果たしたことにより、8月30日には連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着、9月2日には米海軍戦艦ミズーリ号上で降伏文書調印と、戦争終結に向けてつながっていったのでした。

こうした事実を知ると、袖浦局長さんの解説書にある「現在の平和な日本があるのは、鮫島・袖浦村の人、明野陸軍飛行学校天竜分教所隊員方のお力と思いました」という一文が、あらためて心に響きます。

この資料をいただかなければ、この一連のできごとを知ることもなかったでしょう。風景印には、こうした歴史を埋もれることなく、広くしらしめられる大きな力があるということですね。

もっとも、本来はこうした何らかの動機があって風景印を作るわけですから、風景印を配備したらこうした周知活動をしてほしいところです。年に数回しか使われず、ロッカーの奥にしまわれたままなんて寂しすぎます。

風景印カタログには、描かれた題材の名前は書いてありますが、なぜその風景印が生まれたのかまでは書かれていません。配備した局側が語ってくれなければ、そのうち何でその図案になったのかもわからなくなってしまうでしょう。

とまれ、袖浦局の皆さんが風景印に込めた、地元への愛と誇りを知ることができてよかった。ありがとうございました。

追記:
この事件を詳細に調査研究なさった地元の郷土史家さんが、「緑十字機の記録」という書籍を自費出版されているそうです。

詳しくはこちらのブログ『ただ若き日を惜しめ …… (緑十字機の記録)』をご参照ください。

ぜひ読んでみたいです。

袖浦郵便局の旧風景印(初代)

袖浦郵便局の旧風景印(静岡県磐田市)

使用期間
平成11(1999)年10月1日~平成27(2015)年10月26日
図案説明
竜洋海洋公園と掛塚灯台を描く

袖浦郵便局の地図

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